『TAR/ター』のエンディング解説! リディア・ターはヴィランなのか犠牲者なのか[ネタバレあり]

おともコラム

ケイト・ブランシェットが主演を務めた映画 『TAR/ター』。二時間越えの作品とあり、見応えアリの一本ですが、本作に込められた意味やメッセージなどを読み解くことはちょっと難しいと感じた人もいるのかもしれません。本記事では、アメリカの映画メディアScreenRantを参考に、エンディングの解説記事を書いていきたいと思います。

あらすじ

ドイツの有名オーケストラで、女性としてはじめて首席指揮者に任命されたリディア・ター。天才的能力とたぐいまれなプロデュース力で、その地位を築いた彼女だったが、いまはマーラーの交響曲第5番の演奏と録音のプレッシャーと、新曲の創作に苦しんでいた。そんなある時、かつて彼女が指導した若手指揮者の訃報が入り、ある疑惑をかけられたターは追い詰められていく。(映画.comより引用

映画「TAR/ター」日本版予告編/5.12劇場公開
トキエス
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あまりのリアルさから、実話なのでは?と思う方もいらっしゃると思いますが、本作のリディア・ターは、架空の指揮者です。

 

※ここからは映画のエンディングの内容が含まれます。まだ見ていない方はご注意ください。



この映画は、ケイト・ブランシェット演じるリディア・ターの人生のさまざまな面が、同時に崩壊していく様を描いており、『TAR/ター』のエンディング・シーンは、悲劇的なクレッシェンドで結ばれます。

フィナーレでは、リディア・ターは抗議と論争の的となり、ジュリアード音楽院での職を失い、マーラーの交響曲第5番のライブ録音の指揮者という名誉ある地位も失ってしまいます。さらにリディアは妻のシャロンとの関係も複雑化したことによって娘に会えなくなり、さらには仕事場として使用していたアパートからも追い出されることに。憂鬱の頂点に達したリディアは、オーケストラの本番で後任の指揮者を攻撃して、会場を騒然とさせます。

完全にブラックリストに載ったであろうリディアは、フィリピンで仕事を見つけ、新たな地で指揮者としての仕事をまだ続けられることに。リディアがこの映画で最後のオーケストラを指揮するとき、彼女がビデオゲーム『モンスターハンター』シリーズの楽譜を生演奏していることが明らかになるところでエンドロールに入ります。

本作エンディングの解釈のひとつに、この出来事は幻覚だと説明するものがあります。もしこの解釈が正しければ、本作はケイト・ブランシェットが出演した映画の中で最も奇妙な作品のひとつになることでしょう。

ScreenRantでは、「最後のシーンが罪の意識による幻覚であり、映画の結末がすべてリディアの頭の中で起こっているとすれば、より納得がいく」という記事を出していました。彼女が指揮者を襲うシーンも、オルガのような売春宿の女を見るシーンも、スクリーンに映し出されるすべてが彼女の幻覚じゃなければ、物語の深みはそれほどなかったという解釈もあります。また本作は、リディアのうつ病との闘いが映画全体を通して悪化していることをほのめかしていることも重要なポイントです。

このようなシリアスでダークな映画でありながら、本作では、リディアがコスプレをしたモンスターハンターファンの前で指揮をとるという、独特の明るいエンディングでしたね。

リディアのキャラクターは音楽に対して気取ったところがあり、ビデオゲームのような劣ったメディアを見下すタイプ。そのため、リディアにモンスターハンターのゲームや映画シリーズを指揮させるのは、彼女の人生がいかにひっくり返ったかを示すオチとなっています。

エンディングに『モンスターハンター』が選ばれたのも、意図的なものと予測されます。スーパーマリオやゼルダの伝説のような知名度の高い音楽がなぜ選ばれなかったのかと思う人もいるかもしれません。『モンスターハンター』がリディアの最後のシンフォニーに選ばれたのは、「そのタイトルに由来する」とScreenRantでは説明されています。「モンスターハンターは、リディアが自分自身からも他人からも “モンスター “として認識されていることを考えれば、テーマ的に完璧な選択だ」とのこと。

「ハンター」という部分も、本作を通してリディアを追い詰める世間やメディアのメタファーとも読み取れます。

リディアが本当にヴィランなのか、それとも犠牲者なのか・・ということが気になるところですが、彼女の行動だけで判断すれば、リディアは間違いなくヴィランでしょう。彼女は生徒に対して信じられないほど厳しく、人種差別的な暴言を吐いて生徒の一人をクラスから辞めさせます。さらに、リディアは何人かの女生徒に性的関係を迫るのです。クリスタという生徒が辞めようとした後、リディアは彼女を業界から追放し、クリスタは自ら命を絶ってしまう。繰り返される“負のパターン”が、リディア・ターを悪役に仕立て上げているのです。

しかし、本作はリディアの視点から描かれており、ケイト・ブランシェット演じる主人公は常に自分の行動を正当化しようとしている。リディア自体はヴィランですが、映画はそれを明言するのではなく、観客の判断に委ねているのです。

本作で、リディアの行方や物語の展開に答えを求めたくもなりますが、本作はその「疑問」を堂々と残したままにしているのです。これが、映画賞シーズンの人気作品となった理由のひとつなのかも。

 

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リディアが自分の悪行によって完全に破滅するか、贖罪の道を歩むか、映画にはもっと納得のいく結末があったはずです。しかし、この映画はそのような無難な結末にこだわらず、物語の複雑さを継続させ、より現実的なアプローチを貫く結末となりました。

リディアは、大切なものをすべて失いますが、エンディングではまだ彼女が芸術絵の情熱が残っていることも示しています。

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U-NEXTでも配信が開始となっています。



コメント

  1. y より:

    コメント失礼します。
    リディアがモンスターだとも言い切れない描写になっているのが私はこの映画の魅力だと思っています。
    同性愛者の高慢な天才音楽家、という対談シーンから始まり、色欲によって計画的に築いてきたキャリアを台無しにしてしまったり、若い女の子の機嫌をとりにいくような姿も見せたり、最終的にはものごとをコントロールする立場から、コントロールの一部となること、そして時代の変化を受け入れて生きていこうとする人間らしさや、終始一貫して音楽に対する真摯な姿勢を持ち続けたことなど、私にとっては最終的にリディアはすごく魅力的な人間に映りました。

    また、最後のフィリピンでのストーリーを幻覚と捉えるのは少し違うのかなと思います。この映画の中ではリディアの見た説明のつかない幻覚(部屋にクリスタが映っているなど)と、直接描かれてないことを観客に補完させるための説明的なディテールが巧妙に散りばめられています。
    最後のフィリピンのストーリーも他のシーン同様話としては筋が通っているのと、転落以降のリディアを描くことによってこの人物に単なるモンスターではない厚みを持たせていると思います。
    幻覚だとすればブラックスワン的別ジャンルのホラー映画に思えますがそれはそれでこの映画のオープンな解釈の1つかもすれません。

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