『ミッドサマー』などのアリ・アスターが脚本と監督を手がけた『ボーはおそれている(原題:Beau is Afraid)』は、ホアキン・フェニックス演じる主人公が、母モナの予期せぬ死をきっかけに気づきへの旅に出る姿を描いた作品。アリ・アスター監督にとって、これまでで最長の3時間に及ぶ作品で、主人公の現実なのか夢なのかが曖昧に描かれており、ラストの意味も明確ではありません。この記事では、考察&解説を踏まえ、エンディングの意味について海外の記事を参考に紹介します。
※本記事は『ボーはおそれている(原題:Beau is Afraid)』のネタバレが含まれます。
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映画の終盤では、モナが自分の死を偽装したことを知ったボーが彼女を絞め殺そうとします。モナは倒れ、ボーはボートに逃げ込み、彼の人生を支配していた恐怖と不安からも解放されます。しかし、ボーは不思議なことに再びモナ(と彼女の弁護士)に直面し、水上の円形劇場に閉じ込められ、息子として犯した罪を聞かされるのです。やがてボーのボートは爆破。そこで彼は必死にもがくのですが、エンディングでは、息絶えたように見えるというもの。
モナが死を偽装した理由
ボーは映画の序盤で、母親モナがシャンデリアの落下で首を切り落とされて死んだと聞かされますが、エンディングでは、モナが死を偽装していたことが明らかになります。モナは、ボーに捧げようとした愛情を、拒絶されたと感じていました。モナは、ボーを育てるために全力を尽くし、母親が自分にしてくれなかったことをすべて与えたと主張します。
モナは、ボーが自分の葬式に来るかどうか確かめたかったのです。モナは極端な行動をとり、ボーが母親であるだけで無条件の愛を与えてくれると期待しました。死を偽装することは、息子としてのボーにとって究極の試練だったのです。しかしボーは葬儀に間に合わなかったことで、モナを失望させてしまいました。ボーは母がいなくなったにもかかわらず、母を第一に考えなかったのです。モナの 「死」は、ボーにとってある意味“テスト”であり、“罠”でもありました。
すべてはボーの頭の中で起こっていたのか?
『ボーはおそれている』には、何が現実で何が現実でないのか、観る者に疑問を抱かせる多くの側面があります。ラストで明らかになるのは、ボーの恐怖と不安がどれほど深いものかということ。劇中では他の登場人物が彼を撮影する場面があり、ボーは常に(極端に)安全ではないと感じています。
『Beau Is Afraid』は、物語の大部分がボーの頭の中で起こっていることを示唆しています。彼を撮影する人々の存在は、ボーが母親に常に監視されているという強迫観念をさらに強める要素となっています。
ボーは自分の住む地域を恐れ、グレースとロジャーの家族に囚われていることから、ボーは母親の期待に息苦しさと窒息感を感じていることがわかります。
ボーの旅は、彼自身の感情が現れたものであり、彼が認識した現実の一片であって、実際に起こっていない可能性があります。
主人公の視点から『ボーは恐れを抱いている』の出来事を見ると、母親が自分の死を偽装するなど、ある種の出来事は客観的な現実として解釈できます。特にモナの言動を考えると、彼女がボーの愛を試すためにそこまですると信じるのは簡単。しかし、映画そのものは、現実との断絶を示唆するようなやり方で作られています。そのため『ボーはおそれている』の多くは、ボーの高ぶった感情の現れなのかもしれません。
ボーの父親の存在
モナはボーに、彼の父親は心臓に雑音があり、受胎した夜に死んだと話します。屋根裏部屋に行ったボーが見たのは、ペニス型のクリーチャーでした。本物かどうかは不明なので、この存在はボー自身の男らしさの感覚を表しているのでしょう。
ボーがセックスを恐れているのは、父親のように死ぬかもしれないと考えているからで、自分の性器が恐ろしい生き物になるという考えは、彼が自分自身をどう見ているかを表しています。父親が死んだのは事実で、彼は父親の不在とそれが彼の精神に及ぼす影響に対処するために、この怪物のような姿を作り出したのかもしれません。
エレインの死
前述した通りボーはセックスを恐れています。しかし、ボーはエレインとのセックスで生き延びることができました。エレインが死んだのは、セックスが人を殺すというボー自身の恐怖に直結していたのでしょう。決定的なのは、彼とのセックスが人を殺す可能性があるということであり、モナが最初から正しかった可能性を示唆しています
ボーは自分の恐怖を状況に投影している可能性が非常に高いです。彼は自分の男らしさを恐れ、その恐怖が現実に現れ、オーガズムがエレインを殺したという、モナ自身のボーの父親との経験を映し出しているのです。
『ボーはおそれている』は毒親についての物語
『ボーはおそれている』は、多くの恐怖、不安、パラノイアを抱えた人が送る息苦しい人生について描いています。ボーと彼の母親との関係が物語に非常に重要であることから、本作は、有害な親子関係がいかに自身の成長に悪影響を及ぼすかを示しています。
アリ・アスターは、何をしても決して満足しないような、極端に支配的な親を持つことが、どれほど人を麻痺させるかを本作で描きました。本作の中心にあるのは、どれだけひどい扱いを受けようとも、無条件の愛を求められるという期待。さらに、そのような環境における結果への恐怖と罪悪感が人をどれほど支配し、行動を抑制するかを描いているのです。
この作品は成功した?
Rotten Tomatoesのトマトメーターは68%でしたが、熱烈な支持者もいました。特にホアキン・フェニックスの演技は高く評価され、ゴールデングローブ賞のノミネートを獲得。

@beauisafraid / Instagram
しかし、興行的には大失敗であり、制作費3500万ドルに対して全世界の興行収入はわずか1230万ドルにとどまりました(Box Office Mojo調べ)。
そして作品全体の奇妙なトーンが、その結末に対する意見を大きく分ける要因となったようです。海外の声は以下の通り。
「『Beau Is Afraid』は、観客の忍耐力を試すユーモラスな”無駄話”のような作品だ。それはまるで『もし母親がセラピストに話しているあらゆる言葉を聞いていたら?』という問いかけのように機能する。ある部分は爆笑できるが、途中で失速する場面もあり、人によっては耐え難い作品だろう。」
「私は特に、終盤の”葬儀のドタバタ劇”に何週間も笑い続けている。これは、デヴィッド・クローネンバーグの『シーバーズ』のボディホラーに、思春期の少年が学校のトイレの壁に落書きをするような下品さが融合したようなものだ。」
「映画の第3幕(ここでは具体的なネタバレは避ける)は、まるでセラピストのノートから抜け出した搾取映画のようなものだ。壮絶な感情と心理的トラウマ、恐怖の瞬間、驚くほど漫画的な不条理、過去と現在が交錯する奇妙な構成、そして完璧に選ばれたマライア・キャリーの楽曲が流れる。アスターはキャラクター、衝撃的な展開、そして”心理的爆発”を次々と詰め込んでいる。」
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